2011.3.11、その後に思うこと

全くこの世は、分からないことだらけである。
なぜ地震が起きるのか
津波がどれほど威力があるか
原発事故による放射性物質の拡散は、実際はどの程度なのか
それによる生命への影響は?

知識として知っていることと、体感し、「分かる」ことは違うと私は思う。そういう意味で、私にはわからないことだらけだ。緊迫した状況で「ちゃんと知っておかないと不安」になるのは、ごく普通のことだ。でも、こうも思ったのだ。いつもの当たり前だと思っていたことですら、本当には分かっていなかったのではなかったか、と。

例えば、母親のお腹の中で、どうやって人間ができ、生まれてくるのか
眠り方を知らないのになぜ眠れるのか
地球は、どうやって回っているのか
宇宙空間はどんな様子なのか
なぜ私は生きているのか。そもそも私、とは誰か?

未知を認めるとき、生まれるものは、ふたつある。
分からないから、どうせいいことなんて起こりっこないと思うのは絶望。
そしてもうひとつ、分からないから、いいことだってあるかもしれないと思うのは希望。
私には、ただ希望だけを持ち続けるというのは、どうもぎこちなく感じる。むしろ、絶望から生まれる希望、あるいは、現実(リアル)から生まれる希望なら、ありだと思う。絶望か、あるいは、現実から、希望を掴みたい。

ふと、子どもを見ていて思った。彼らは、無知だが、同時に、凄まじい生命力を発揮する。その力の源は、どんなときも今に在る、リアルでいるところからくるのではないだろうか。

私は子どもから力をもらう。子どもたちが成長して、また子どもを持てる世界を残したい。
これまでは当たり前に思えたけれど、今、切実に願う世界はそれだ。

明日も玄米とみそ汁から始めよう。リアルに、着実に、一歩一歩。

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