肉体感覚に宿る過去の記憶

私たちの肉体に心が宿るとか、筋肉は過去の経験を記憶しているということをよく言いますが。フェニックス・ライジング・ヨガセラピーのセッションをくり返し行なっていると、まったくそのとおりだと実感します。

昨日行なった女性クライアントのセッションでは、本人の希望で、ヨガムドラーの姿勢を補助し、保っていました(ヨガムドラーとは、正座の姿勢から、両手を背後で組み、頭を前の床へ下げ、両腕を後ろから高く天井へ向けて伸ばすポーズです)。彼女は、右肩から右胸への強烈な痛みを感じながらも、そのままで7~8分ほど保っていたと思います。終了後のリラクセーションの間に、右の前腕を骨折して痛み、不自由だった子供の時の記憶が蘇ってきたそうです。本人は、そのことは、すっかり忘れていたのです。

記憶は、しばしば、その時に体験していた感情や思考とともに出てくるものです。先月、東京で行なったオリエンテーションでのセッションでも、ある男性クライアントの右足を垂直に上げて保っていたら、「胸がドキドキする」と言うので、そのまま、その感覚を感じているように促していました。すると、プールに飛び込むために順番待ちしていた子供の時の記憶が、その時の不安感とともに、突然、沸き起きてきたと驚いていました。

ヨガムドラーをした女性の場合、毎週のヨガのクラスでは、けっしてそのような痛みが起きるまで両腕を高く上げて保つことはありませんでした。セッションを振り返って、彼女は、涙を浮かべながら、「生きて行くには、痛みはつきものですね。その痛みから逃げずに、しっかりと感じていることが生きる上でとても大切なことなんだと思いました」と感想を語ってくれました。

私たちの多くは、痛みや不安といった体験に出会うと、そのことにどのように対処したらいいのか分からなかったり、恐かったりします。また、そんなことに向き合っている時間的余裕もなく、充分にその状況を体験せずにいつの間にか過去の出来事として放り去ってしまいます。ゲシュタルトセラピーでは、このような中途半端な体験の仕方を”unfinished business”(未完の仕事)という表現をしています。無数に飛び交う情報や知識に流されるだけで、一瞬一瞬、自分の出会う状況を正面から体験しなければ、生きていながら生きていないのだと思います。長い人生で、客観的には何かを達成できても、主観的にはいつも「未完成」のままです。悲しみも喜びも、ゆっくりと自分の体験として噛み締め味わうゆとりのない現代人の心は、とてもかたくなに強ばり緊張しきっています。心を開くことを恐れ閉じたままなので、いつも淋しく孤独です。体の中で起きている無数の感覚に注意を向けて生命の流れに任せてみたら、どれほど心が穏やかになるでしょう。ヨガは、その方法を丁寧に優しく示してくれていると思うのです。

昨日の女性は、最後の数分間の瞑想で、心底から「もっと気楽に楽しくやりなよ」というメッセージが聞こえてきたそうです。私たちが知りたいと求めているすべては、すでに私たちの内面に知恵としてあるということです。(三浦徒志郎)