ヨガセラピー体験記

ある時、知人に簡単なフェニックス・ライジング・ヨガセラピー(PRYT)をしてもらったので、そのときの体験を書いてみました。(三浦徒志郎)


仰向けの状態から、左腕を引っ張ってもらう。しかし、その引っ張られ方が物足りなく「もう少し、引っ張ってくれる?」と頼む。しかし、それでも十分なストレッチではなかった。「もっと、強く引っ張って」それでも足りない。「もっと強く!」「もっと!」「もっと!!」やっと自分の納得するところまで引っ張られた感じになった。そこで自分の口からこんな一言が出てきた。「あぁ、やっと分かってくれた…」それを口にした瞬間、全身の力が抜け、相手もその手を放していた。わずか数分のセッションだった。

その一言の中に、その頃の自分の人生で悶々としている自分の姿が表われていた。「こんなに大声を張り上げて何度も何度も頼まなくては、人は自分のことを分かってくれない」という心の在り方だ。PRYTでは、ヨガのポーズを保ちながら体験することの多くは、自分自身の人生で起きていることと深い繋がりがあることに気づかされる。

PRYTのセッションの場では、そこで起きている体験をどこまでも自分の体験として受止めないと自分の主観は見えてこない。しかし、そのことが体験的に理解できると、あらゆる人生の体験も同じような視点から見え始めてくる。そのとき、自分は周りの人や状況に責任転嫁することなく、自分の問題として受け止めることができる。もし、自分の問題を自分のものとして受け止められなければ、いつまでたっても自分なりの選択や行動はできないだろう。

PRYTは、自分の責任で人生を切り開いていく術を教えてくれるものだと思う。このセッションの体験をもとに、こんな決意が心に浮かんでいた。「もういい!自分でやる!」そして、心の中で「自分はできる!」と唱えていた。この自分の内面から沸いてきたメッセージ(知恵)が、どれほと自分に対する自信と、その行動力に役立つか計り知れないものがある。

PRYTの中で起きる気づきは、いろいろな条件によって触発されるのだと思う。その一つは、セラピストにサポートされることで、自分はリラックスしながら、最大に体を伸ばしたエッジと呼ばれる状態まで行けることだ。エッジに自分をおいてみると、次から次へと気づきが生じてくるものだ。

そして、二つ目の条件は、セラピストの存在そのものだ。セラピストが何のアドバイスもせずに自分の側に共にいてくれるということで、少なくとも二つのことが生じる。一つは、自分の内面への注意力、つまり気づきが格段と高まること。もう一つは、セラピストがまるで自分の姿を写し出す鏡のような存在になること。自分の場合、今回のセッションでは、知人でありながら、セラピストとしての存在があったからこそ、「もっと強く!」「もっと!」「もっと!!」という現状に対する不満や心の苛立ちに気づいたのだし、「あぁ、やっと分かってくれた…」という安堵感さえも体験させてもらえたのだ。

あらゆる人間関係において、相手(パートナー)は自分の鏡だと言われている。相手と正面から向き合うとき、そこに映し出される自分自身の姿は無視できるものではない。そこで起きている体験は、相手に投影された自分の姿を自分が見ているだけなのだが、その姿が醜かったり不快だったりすると、それを相手から一方的に投げかけられたものだと勘違いしてしまう。または、少なくともそのように信じたいのだ。そこに人間関係のこじれる原因があるのだが、PRYTの中では、そういった勘違いに気づき、苦しんでいた自分の心から解放されることが度々起きるのだ。